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「私が神様だったら」

 「わたしが神様だったら/こんな世界は作らなかった」(福岡晃子「世界が終わる拠るに」)——何と不遜な歌詞だろう。
 日本だから笑っていられるが、熱心な信仰心をもった人々が多数を占めるところでの発言なら顰蹙(ひんしゅく)を買うだけではすまないかも知れない。
 そういう大胆な詞をよく伸びる水飴のような声で歌い上げるのが魅力のチャットモンチー。

 無神論者が多数を占める日本では、融通無碍(ゆうずうむげ)なその場しのぎのインスタント信仰が公然と認められている。本当には信じていないくせに神社にお参りしたり、クリスマスを祝ったり、ちょっとした宗教的行事に関わったりする。私も初詣には行くし、墓参りにも行く。
 
 信じることに命を賭ける人もいる。

 日本でもキリシタンの弾圧は多くの殉教者を作り出してしまった。乃木大将は明治天皇を追って死んだが、彼の殉死は文学者(森鴎外、夏目漱石や司馬遼太郎)にも大きな感銘を与えて、作品にも取り上げられている。最近では「殉職」がそれに当たろうが、今は職務中に死ねばその経過や意図にかかわらずそう呼ばれるので、殉死や殉教とは実質において異なる場合も多い。
 だからといって職務に命を賭ける行動が日本でそれほど珍しいということではない。命を賭けるかのように仕事に打ち込む人は多い。
 水俣に賭ける石牟礼道子、公害に賭ける宇井純、原発に賭ける高木仁三郎、ルポに賭ける鎌田慧……彼らも命を削ってでも自らの信じる道を歩んできた。(そして今も歩んでいる。)
 そういう人の存在が私たちにどれだけ勇気を与えることか。

 だが、一般には命を賭けてまで信念を貫き通すのは難しいことで、そういうことをできるのは特異な人物か、運に恵まれた(?)人であろう。
 遠藤周作の名作「沈黙」(新潮文庫)では信仰を貫くことよりもむしろ「裏切り」が繰り返し描かれていて、案内役のキチジロー(転びキリシタン)の裏切りによって捕えられた司祭も迷った末に「踏み絵」を踏んでしまう。だが、司祭は踏み絵を踏むことによって、つまり本国の教会からは見離された地点に踏み入ることによって新しい信仰の道へ入って行った。それはうねり曲がりくねった苦難の道だったが、司祭はその道へ迷い込むことによって彼の信念を貫いたと見ることもできよう。
 
 宗教を掲げて侵略や殺人を行うこともある。
 殺すことや奪い取ることによって「悪人」を救うのだと考えたオウム真理教は犯罪者集団化してしまった。テロを繰り返すイスラム過激派の背後にはイスラム教がある。(但し多くのムスリムはテロを行う人々を正統的なイスラム教徒とは見なしていない) 彼らテロリストたちは背教者、宗教的敵対者を滅ぼすために命を投げ出すこと(「ジハード」…これも本来の意味とは異なる形で使われているようだ)によって天国に行けると信じている。
 歪んだ宗教的異端がテロに走ることはあるし、自殺、他殺、戦争といった破壊的行動に突き進んでしまうことがある。
 世界史を見渡したとき、宗教の名で一番沢山人を殺してきたのはおそらくキリスト教徒だろう。(ブッシュ氏も「テロとの戦争」では「神の名」を語っていた!)
 だが、それらは宗教の本質とは異なるように思う。宗教の本義は殺すことより救うことにあるのだと思う。だからこそ苦しい生存条件の地域(キリスト教もイスラム教も砂漠で生まれた)に熱心な信者を見出してきたのだ。
 
 「アフガニスタンの少女、日本に生きる」(虎山ニルファ 草思社05)によると、アフガンでは子どもたちは幼い頃からコーランを意味もわからずに暗記させられている。アラビア語なので意味もわからない。文字を教わるということもない。ただひたすら暗記するのだ。何ら疑問を抱くことなしに。
 貧しいからいつもひもじいし、厳しい環境だから病気やケガも多い。文字の読み書きもろくに出来ない。それでも子どもたちの表情は日本よりはるかに明るいのだと言う。
 アフガンに行っていた友人もその子どもたちの美しい目のことを遠くを見るように語っていた。
 それを宗教に起因するかのように語るのは飛躍というものだろう。だが、貧しいからこそ信じるものが生まれ、その信じるものによってすっくと立っていられる、という状態と、様々な道具や服に囲まれながらニヒルに〈現実〉と顔を突き合わせている状態とを比較すれば、どちらが明るい表情になりそうか容易に想像はつく。
 
 現代の日本での若者の〈絶望〉には皆が気付いている。だが、彼女たちほどサラッとそれを歌ってはしまわなかった。「不遜」を彼女たちはおそらく知らない。いや、わかっていてもそれを踏み越えさせる何かを見てしまっているのかもしれない。「生命力」(KI/OON RECORDS 07)というタイトルは皮肉な響きだ。

 チャットモンチーの福岡晃子は冒頭に掲げた詞をこう続けている。「愛という名のお守りは/結局からっぽだったんだ」

 私が脇にいるのだったら何を語ることができるだろうか? 「希望の光なんてなくったっていいじゃないか」(「シャングリラ」)と語る高橋に、或いは「もうこれ以上歩けない」(「橙」)と叫ぶ橋本に。そして、「しまった!もう世界は終わっていた」とつぶやく福岡に……。
 とりあえず、あなたたちの歌ばかり聞いているということから語り始めるか…。

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コメント

なるほど

投稿: yamio | 2009年4月16日 (木) 22時58分

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