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魂の労働のゆくえ

 ポッセ——ハートとネグリが『〈帝国〉』(以文社 03)の締めくくりに用いたこのことばを用いて、渋谷氏はポストモダンの都市を生きる新しいスタイルのイメージを提出している。元はアメリカの「アンダークラス」のラッパーたちが自分たちの仲間を指す語として広まったことばである。(『魂の労働』渋谷望 青土社03 終章より)
 トリシア・ローズ(94)が注目した、ヒップホップの生成現場―ー改造したターンテーブル、スピーカーと街から頂戴した電気とでストリート・パーティを創始したDJたちを例に挙げて、限られた資源を活用して「生産」を行う労働者のイメージを喚起して、「労働」と「遊び」の境界の消失と「サバイバル」と「快楽」の両立の可能性を渋谷氏は指摘している。さらに70年代のジャマイカを舞台にレゲエの発生現場を描いた映画「ロッカーズ」を手掛かりに、反感でも単なる現状肯定でもない「批判的肯定性」というものの可能性に夢を託している。
 最も怠惰で最も底辺にいると言われた人々が自由な生産の拠点を見つけ、金持ちどもに一泡吹かせる逆転の一打を放つロマンは確かに映画向きであろう。

この論は日本の60年代後半のフォークソング・ブームを連想させる。「対抗文化」のリード役として素人シンガー・ソング・ライターたちが星の数ほど登場した。新宿の地下広場では毎週祭りのような「フォーク・ゲリラ」が万単位の若者を集めていた。その中で当然商業ベースに乗って「出世」していくシンガーも出現する。(吉田拓郎はその出世頭であろうか。)

 60年代のコウリュウ(興隆&交流)を知らない66年生まれの渋谷氏には夢が見えてしまうのかもしれないが、彼の論はロマンティシズムというものであろう。
 このロマン主義は氏が同書1章で述べていた、「生」そのものを「労働」が包摂するかに見えるポストモダンの経済において、そういう「感情労働」へのあらゆる〈労働〉のなだれ込みが、〈要介護高齢者〉と〈介護労働者〉との、そして〈産業労働者〉と〈失業者〉との連帯の可能性への道を拓く、という示唆にも同様に見られる。

 だが、本当にそうだろうか。
 労働に対して〈クール〉に振る舞うことの許されていた60年代は過ぎて行って、もはや2000年代。「自己の感情のマネジメントまで含めて労働を商品化するという意味での〈感情労働〉を要請されている」(渋谷・同書より)時代の〈労働者〉は、連帯の回路を予め封じられているのではないか? 残されているのは「暴走老人!」(藤原智美 文藝春秋07)のように自らの中の回路がショートする「暴発」なのではないか。

 私はかつて、〈労働〉に回収されない「生の全体性」を確保することを〈演技〉というキイワードで考えてきた。〈風景〉としての商品経済社会に〈演技〉で切り込んでいくというイメージである。それは一定の有効性を持っていたと思う。〈演技〉はもちろん〈風景〉を構成する一要素として始められる他ないし、社会からの要請としてはまさにそれが全てなのだが、生きる主体としての「生」そのものである〈私〉は〈演技〉に打ち込むことによってその風景を切り裂く位置に知らず知らずのうちに立ってしまうという捉え方であった。80年代まではそれでよかった。だが、今や〈演技〉を担保していた〈仕込み〉のための時間やエネルギーが多くの労働者から失われてきている。防衛官僚の守屋氏のように趣味(ゴルフ)や余暇(旅行)の時間をたっぷりとって仕事を〈演技〉の回路に閉じ込めておくことができる人は例外的存在になってしまった。ふてぶてしく「オレはイヤイヤ仕事してるんだよ。文句あっか?」と居直った仕事ぶりは許されない社会(すなわち「感情労働社会」)が出現しつつあるのである。
 ここで注目されるのは(渋谷氏のような楽観ではなく)、数々の食品衛生法違反の発覚に見られるように、底辺の労働者が〈正義〉の旗を掲げてトップを撃つ〈狙撃〉事件の多発であろう。
 この〈狙撃〉は一時的にはトップの腐敗を糾し、社会的正義の実現に貢献するかに見えて、実は各企業に益々〈労働〉の質を〈感情労働〉的に変質させるチャンネルの選択を強いる結果になるのではないか。そして、その〈感情労働〉を支える仕事として膨大な量のOA事務(その多くは「個人情報」の収集とその分析、さらなるサービスのためにPCの活用が不可欠であるため膨大なVDT作業を必要とする)と膨大な数の苦情対応要員(電話及び対面)を要請する。

 多くの「マクドナルド」は余った生野菜を期限が来たら必ず捨てさせていた。労働者は「もったいない」という〈感情〉を押し殺して捨て、客にはそんなことはオクビにも出さない〈笑顔〉で接することを要請されている。これが〈狙撃〉の結果実現される会社であり社会である。〈狙撃〉には新しい社会の理念があるわけではない。ただ、〈正義〉の旗印がある。そして、その旗の裏にはおそらく〈怨念〉が貼り付いている。それは〈感情労働〉が生み出した〈怨念〉に違いない。

 〈感情〉に対応するための〈感情労働〉が膨大化するのは〈感情バブル〉と呼ぶべきではないか? だとすればそういう社会でまずは弱者たちが「感情の暴走」に追い込まれていくのは当然のように私には思われる。渋谷氏の甘いロマンはカラの杯ではないか。

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