子どもに帰る
《リード》
正月は父母を連れて小旅行に行った。母は数年前から認知症である。旅行先では夜に特に異常な言動が目立った。
《本文》
服を整えたり髪を手入れしたりはキチンとはやり切れていないから、ややだらしない感じになってはいるが、昼間はいたって善良なのだ。感謝を忘れない。愛想を振りまく。甲高い声で丁寧に挨拶をする。にこやかである。人一倍上品に振る舞う。話す内容も無難で、それほどの違和感はない。
だが、夜が問題だ。
床に就いてからが大変だ。
独りごとをブツブツ言う。最近あったイヤなことにからんだ言い訳やそのときの自分の思いの回想や発言の繰り返しなどである。そのうち今の気持ちが混じって来る。家族に対する不満である。「コソコソ内緒話をして…」「私は〜と思ってやっているのに…」「テレビを見ててもしようがないの!」――孤立感が透けて見える。
さんざんブツクサ言った後静かになったかと思うと突然起き上がる。お手洗いなのか、それとも何か別のことを思いついたのか、はっきりしない。
「トイレはそっちじゃないよ」と声を掛ける。「えっ」という感じで立ち止まる。「あっちだったよね」と指差しながら話しかけ、近寄って行く。それでも動かない。トイレでは実はなかったのかも知れない。だが、何かやりたいことを聞き出したとしてもそれは多分より困った状態を招くだけだから、トイレで押して行く。そうすると当人もそんな気になって来る。脇に立ってトイレの方を手で示すと「ああそうだった」というようにそちらに向かう。
すると今度はトイレの入り口が分からないと言って戻りかけるから、「その隣の引き戸でしょ」と言ってやる。そうすると分かったらしく入って行く。やはり大して行きたくなかったと見えて、すぐに出てくる。水はちゃんと流している。
今度は自分の布団が分からない。考えてトイレの一番近くにしたのは無意味だったか。一番奥までやってくる。私の近くに来たいのかも知れない。「あっちだよ」と教えると「ああそうだったか」という感じでようやくそちらに向かう。
そうしてまたブツクサひとくさりやってから静かになり、こちらも漸く三時間ほど眠れた、と思うと又起き出して来る。今度は押し入れを開けている。「そこは押し入れだよ」と声を掛けても、隣りのふすまも開けて見る。「どうしたの。そこには何もないよ。コートならもっと左のハンガーのところでしょ。」と言うと、「ないのよ。お鍋が!」と困った様子。「ここは旅館だから、おばあちゃん、ご飯は作らなくていいんだよ。」と言っても「どうしたんだろう。お鍋がないと困っちゃう」と大きな声で言う。「いいんだよ。宿の人が作ってくれるから。今日は作らなくていいんだよ。ここは家じゃないからお鍋も置いてないよ」と言うと、少しは分かったのか、探すのを止めた。普段から食事の用意は出来なくなっている。段取りがうまく付けられないから無理なのだ。でも作らなくちゃいけないとは思っている。だから何かしらやろうとするのだろう。
それから暫くゴソゴソしてから何度めかの床に就く。
布団に入ってからも「ご飯の用意はちゃんと出来てるから」と大きな独り言。いやこれは配偶者への当てつけかもしれない。事実としては配偶者が大体作っているのだ。それをちょっと手伝うくらいしか最近のご当人には出来てない。配偶者の方もそれほど料理が得意なわけでもないからもっぱら「中食」やうどん、そばなどササっとできる物で済ませている。外食も多い。それでも自分が作らなくてはならないという意識があるから、こういう言葉が出て来るのだろう。
昼間も観光の類いは意味をなさない。富士山を見てもきれいな川を見ても珍しい建物を見ても感動はないようだ。美しい景色への関心というのは高度な精神活動のようだ。「観賞」はもうできない。「鑑賞」はなおさら無理だ。食べ物や持ち物にはまだ関心を示す。いつも自分の持ち物をチェックしている。車で移動中は絶えず何かを探しているみたいだ。それに、お土産については考えている。誰と誰と誰には買って行かなくてはならない、というように。だが、自分で土産物を選ぶことはできない。土産物を見てはいるが、買うのはもっぱら配偶者の方だ。
食欲は旺盛だ。料理の美しさは分かる様子だ。「器も料理もきれいだから食欲をそそられる」と私が言うとその通りだという顔をしている。そして前に並べられたお年寄りにはやや多めと思われる量の料理を次々に平らげている。
確かに見た目もお味も上等だ。いい材料を使ってきちんとした手間を掛けて丁寧に作られた日本料理である。しかも珍しい料理がいくつもある。味付けは薄めで上品。あくどさや嫌みはない。
食べ方には勢いさえ感じる。「そんなに食べて大丈夫か」と心配になるほどだ。
旅行に来る前には緊張して体調を崩した。食欲もなくなって一時はほとんど食べなかった。お腹が下ったりもした。
母は認知症である。症状は「記憶障害」「見当識障害」「認知障害」「思考障害」「夜間せん妄」。私の推測では「レビー小体型認知症」。「抑肝散が効果ある」とあったから主治医に相談してみよう。
息子を自分の弟の名で呼んでいる。弟をよく可愛がった姉だった。
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