言葉と視線
《リード》
私たちは何によって生きるのか? 今日考えたこと。
(Paix2(ペペ)、慰問コンサート、マイケル・ジャクソン、Spoiled Child、蒼井優、小池徹平、過呼吸、サルトル)
《本文》
Paix2(ペペ)という女性デュオが、長く続けている刑務所の慰問コンサートの手応えがいまひとつ感じられず、周りからも「そんなことやっても売り上げは伸びない」と言われ、迷いを感じていた頃の出来事を話していた。(NHK教育テレビ「福祉ネット」09.7.8) 刑務所の収容者の感想で誉められていても「お世辞も入っているかな」と思ってしまって、本当のところどうなのだろうと不安だったそうだ。ある地方でのコンサートの時、開演前に楽屋にジャージ姿の強面(こわもて)の男性が来て、黙って手紙を渡して去って行った。その手紙を開いてみると、「刑務所で歌を聞いて以来、二人の歌が自分の支えだった。これからも慰問をして受刑者に勇気と希望を与え続けてほしい」と熱いメッセージが綴られていた。「声を出して歌う事は刑務所では禁じられていたが、心の中ではいつも歌っていた。」とも。まだ出所して間もない様子で、Paix2のコンサートがあることを知って一所懸命に手紙を書いてそれを持ってわざわざ訪ねてくれたのだ。開演前だったのに、二人は廊下で号泣したのだそうだ。
生き生きと自信をもって生きて行くのに、何万、何十万人もの賞賛は必要としない。たった一人の真実の声援があれば十分である。
世界中のファンから賞賛の的だったマイケル・ジャクソンは死の直前、ロンドンで予定のコンサート準備の際に「僕はマシンだ。だからちゃんとオイルを差してくれ」と言ってスタッフに医者を加えることを要請したと伝えられている。だとすればマイケルは他人のために生かされていると感じていたのかもしれない。多くの賞賛は人をスポイルしかねない。巨額の富が集まるところには人々の欲望も渦巻くからだ。幼い頃からチヤホヤされた子どもが「Spoiled Child」と呼ばれる「困ったチャン」になってしまうのなどそれに比べれば可愛いものかもしれない。再起の機会は自然に訪れるだろうから。せっかくのチャンスを生かしきれないケースはあるにしても。
逆の視点から見ても同じ事は言える。
例えば、大勢の人の前で話す時、いったい誰に向けて語ったらいいのかという問題である。万人向けではダメなのである。「不特定多数」をイメージすることは難しい。むしろたった一人に向けた話をするのが正解である。一人の心を捕えられない話は遂に誰の心をも捕えることがない。そしてもちろん、その一人は最も大切と思える一人でなければならない。生き生きとした力のこもった話はそういう状況でこそ生まれよう。
そういう話をしたずっと後で、そのまさに標的だった人から「まるで自分のことを言われているようで居心地が悪かった」と告白された時、「してやったり」と思ったものだ。だが、むしろ問題はその同じ話を他の聴衆がどう受けとめたかだろう。その答えは実は先に出ている。話した時の「手応え」である。手応えが無いとき話は失敗である。成功体験がない人にはわからないかもしれない。静かになって聴衆が自分の次の一言を聞き漏らすまいと集中してくる。それが話の間中持続したならそのスピーチは間違いなく成功である。
偶然だが、さっき蒼井優と小池徹平がTVで対談していて、高校時代の思い出話をしていた。隣同士の席だったのに一度しか話したことがなかった。その一度とは消しゴム(鉛筆かも?)を蒼井が落とした時、小池が拾って「ハイ」と渡して「あっ。ありがとう」と応じ、蒼井は小池に背を向けるように坐り直した。それだけ。だが、その時の細部まで、二人とも鮮やかに覚えていて、互いを意識していたことに今さら照れていた。背中でアピール。微笑ましかった。
私を知っている人はそんなことがあるはずがないと思うだろうが、不思議とあるのだ。今晩帰って来る電車(空いていて立っている人はいなかった)の中で、私にアピールして来る女性がいた。やや大柄の20代後半だろうか、少し距離をおいてだが隣に坐っていた。髪を繰り返し撫で付けて、こちらに印象づけようとしていた。その気配に感じた私は何度かその横顔に視線を送ってそれに応えた。視線は何度かかすって互いの意識を確認できた。
その時思い出していたのは、よく過呼吸の発作を起こす女性に髪を掻き上げるクセがあったことだ。私の前でもうるさいほど髪を掻き上げる仕草を繰り返していた。「私をもっと見て」という無意識のサインだったのだろう。やがて、彼女が特定の男性が近くにいるときに限って倒れることに気付いた。その男性は偉い人で、根っからの優しさから倒れるときちんと介抱し手を握ったりしてあげていた。(それがマズかったという評価もありうる)
電車の女性だが、何度かそういう暗黙の交渉をした後、坐り直して私との間を微妙に詰めてきた。(ホンモノだと確信した)そして私の降りる一つ前の駅で席を立った。私はその後ろ姿を斜め後ろから追っていた。扉が開いて降りる前に案の定振り返って私を確認した。それに応えて腰を浮かしかけた(これはウソ! 笑)。決着は見えている。ピエロを演じようとは思わなかった。第一私はその時別の人のことを考えていたのだから。
それにその誘いのきっかけを私は知っていた。
私たちの向かいに坐っていた文庫本を熱心に読んでいた小柄な女性である。彼女へのライバル意識からチャレンジして来たのだ。「その人じゃなく私を見て」と。
無意識のうちにも嫉妬は動いている。それに下手に関わるのは賢明ではない。
私たちは嫉妬を越えた「投企」(サルトル)のような思い入れを求めている。それに涙しそれに応えようとする。Paix2への手紙の男性のような直球。
| 固定リンク


コメント