密林の立ち読み
《リード》
Amazonの「なか見!検索」サービスについて
(一部、内田樹、村上春樹、カフカについて)
《本文》
雨が降って来たが今日は散歩に行った。
週末に宴席が続いて行けなかったからもあるが、ネットをやっていて興奮して来たからクールダウンのためということもあった。「エッチな画像でも見ていたんだろう」と言われそうだが、そうではない。
Googleの、アメリカにおける大学図書館と連携しての書籍のデジタル画像化問題について書こうと調べているうちに、Amazonで既に始まっているサービス(本の「立ち読み」サービス)を知って、それに夢中になったのだった。(遅れてる!)
今日覗いたのは『思考停止社会〜「遵守」に蝕まれる日本』 (郷原信郎 講談社現代新書)と『村上春樹にご用心』(内田樹 アルテスパブリッシング)の2冊だけだが、それでも十分に面白かった。
内田氏の著作は一昨年くらいまで愛読書の一角を占めていたから、ウチにも10冊以上あるだろう。だが、この本はあえて読まなかった。村上春樹が好きになれないからだ。なぜだかわからない。なんとなくイヤな感じなのだ。気にはなるのだ。でも好きにはなれない。それでは批評にはなるまいが、それで構わない。彼の小説を読むとどちらかというと不愉快な気分になる。矛盾のようだが、心地よい不愉快というのもある。カフカの小説はまさにそれだ。不安や苛立ちは深まるのだがどんどん先が読みたいし、読んだ後も読んでよかったと思える。ところが村上春樹の場合、読んだ後に来るのは大概は後悔だ。読むんじゃなかった、という。だからなぜこんなに人気があるのか分からない。その問に誰かに答えて欲しいと思っていた。
ひとつの考え方はあった。私がいわば「旧世代」に属しているからかもしれないというものだ。内田氏の論の一部を読んだ今の時点でもそうかもしれないと思っている。
優れた文学者は新しい時代を先取りするものだ。
大江健三郎が登場したとき、私たちはやはり興奮をもって迎えた。新しい時代の作家の登壇を拍手をもって迎えた。そして古い世代からの受けは必ずしもよくなかった。悪文だの下品だの文学的な水準から言えば低劣な批判に晒されていた。
村上春樹もそれと似ていなくはない。新しい時代の文学——なのだろうか。
内田氏は彼がカフカ賞を受けたことを取り上げて、父無き時代に生きることを書いている点でカフカと共通しているのだと捉えていた。「父の不在」は確かにカフカのテーマだが、自らが父になることを拒みつつも父を求めるポーズがあったと思う。父に対するアンビバレンスである。それに対して村上春樹はどうだろう。迷路を引きずり回される感覚は似ていなくはないが、カフカのような楼閣的世界が感じられなくて、ただズルズルのヘビみたいな感覚が気味悪い。
内田氏、そして村上氏は、世界はそういう気味悪いものに既に支配されていると捉えているのだろう。私の感性は「旧式」でその新しく出現した波にきちんと同調できない、ということか。
いや、この原稿は「内田/村上/カフカ」論ではなく、Amazonの、もしくはGoogleの書籍のデジタル化とその無償公開問題について書こうとして始めたのだった。
「なか見!検索」——Amazonのサービス名である。
内田氏はGoogleの書籍のデジタル化、及びその無償公開(今のところアメリカで「絶版」になった書籍のみが対象のようだ。Googleの真の目論みは違うだろうが)にも基本的に賛成であると彼のHPにあったから(理由は一冊でも多く売れることより一人でも多くの人に読んでもらいたいから)、当然Amazonにも公開されているだろうと踏んで当たってみたところ確かにあった。
そこで読んでない本を立ち読みしてみたわけだ。トータルで20ページほどしか読んでいないが、それでも読んだ気分になる。最初に書いたように興奮するほどだ。散歩の間もずっとそのことを考えていた。内田氏の「村上春樹」像をである。
そしてこう思った。
このサービスは本を読ませる仕掛けとしては面白いが、トータルな規模で考えてみたとき、はたして本の売り上げ増に貢献するかどうかは怪しい。現に二冊の本を拾い読みして、私は「事足れり」という感想を抱いている。
小説を読みたい人は違うだろうが、ブログを書く材料やヒントを得る程度のことだったら、何も本を買ったり借りたりしなくても、このサービスを利用すればすむ。それに以前読んだ本も本棚やコンテナの中を探さなくても、検索語を入れれば関連ページが表示される。書きたい意欲をかき立てる効果は充分だ。
そこで取りあえずの結論。
この覗き見サービスは、Amazon は潤してもトータルな本の売り上げ増には貢献しないだろう。そして、ちょっとだけ覗くスケベな輩(私のような)を増殖させることになるだろう。つまりスケベな精神を育成することになるだろう。スケベとは、好奇心はあるが、それによる自己変革までは考えない自己中心的態度である。本の醍醐味である精神的な冒険——未知の世界に迷い込んで新しい自分になって帰って来る―—にまでは到らない文字通り「つまみ食い」的態度を奨励する結果になるであろう。
文章を読む時間が増えるという点では読書活動の推進に貢献すると言えるだろう。活字の消費量を増やすに違いない。そして書く人を増やすことには繋がりそうだ。だが、それが意味ある生産とまで言えるかといえば、独り言のようなつぶやきの増産はそれぞれの自己満足に留まり、社会の風通しがよくなる方向に結実するかどうかは怪しいと思うのである。
(6.29記)
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