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制度と夢

《リード》
映画「ディア・ドクター」(原作・脚本・監督:西川美和 09)について。

《本文》
 いい映画だが、「揺れる」(06)のときのような「切れ」が感じられない。鈍い仕上がりである。ストーリーも平凡だ。予想外の展開や台詞というのはない。……いや、ひとつあったか。
 そこから書いてみよう。

 それは若い研修医である相馬(瑛太)が刑事(松重豊)に語ることばである。自己弁護に走っていた。伊野(鶴瓶)とともに仕事に励んでいたとき、彼は理想に燃えた。どの医者も来たがらない過疎の村で地道な診療に打ち込む伊野の姿に惚れ込んで、インターンが終わって一人前の医者になったらここに戻って来て一緒に働きたい、と目を輝かせた。だが刑事の前で、彼はやはり普通の医者のように(?)守りに入った。伊野を弁護するよりも、市民社会の通常の暗黙のルールに沿った言動を選んだ。(ここには男を見るクールな西川という女の視線を感じる)
 そうやって市民社会は維持されていくのだろう。相馬はもう過疎地には来ないのだろう。

 なぜ西川はここで相馬に自分の見た夢の真実の一片をつぶやかせなかったのかと思う。自分がすっかり騙されていたことを恥じるような台詞に逃げ込ませたのは面白くない。(男はもっとロマンチストさ 笑)
 だが、計算された上だろう、西川の視線は刑事に入り込んで行く。刑事というポジションを楽しんでいるように見える。薄っぺらになって消えていく相馬に対して、刑事は存在感を増す。
 ホームですれ違う刑事と伊野のシーンでも、伊野は存在感の希薄な幽霊のように扱われ、刑事たちが実在(リアル)であると主張する絵になっている。

 「刑事」とは何か? 言語化された私たちの社会のルールである刑法や医師法に基づいて社会を律していくことを職務とした存在、行政官である。行政官にも魂はあるから、悩みも生じる。だが、市民社会のルールを実現して行くということは、社会の変革に追いつけない、あるいはその合理性からはじき出された世界を葬ることに手を貸すことである。
 「合理性」? 私たちの社会の「合理性」は、日々刻々変化している。法律は改正され、「最終」決着も塗替えられ、昨日の正義は明日の違法行為だ。それが私たちの社会のルール。個人情報保護法、臓器移植法、水俣病救済、裁判員制度、禁煙条例……変わっていく最終審は膨張する宇宙のようにキリがない。
 そして私たちの夢は、図柄の塗り替えられて行く制度的世界とはズレた領域で見られるに違いない。
 
 「きのうの神さま」(西川美和 ポプラ社 09)の中に次のような一節があった。
 父親に恋をしてしまった兄を心配する弟の言葉である。老齢の父親は倒れ今病院のICUで眠らされている。そこに遠くから兄がやって来る。40歳の弟は一人で待っていた。
 「ぼくは理解した。兄は、とっくに父を卒業していたのだ。…(中略)…お兄ちゃん、もうお父さんはいいの? 兄が、いまだに独りでいることが急に悲しくなった。父でない誰かに、兄は心を捧げる事ができたのだろうか。…(中略)…だけどそれでも、自分だけを頼りに、たった一人で卒業した、兄の人生が、さびしくて、ぼくは。」

 父に恋することは息子たちの特権である。父を慕いながら遂に父から受け入れてもらえなかった兄を気遣う弟自身、父に恋していたに違いない。兄を気遣う振りをしているが、実はそれは自身の心の投影であるのだろう。兄は孤独に馴れ、死にも馴れた存在として戻ってくる。それでも戯れ合う子ども心は失っていず、思わず度を超して意識のない父親から叱られる……。
 ここでは病院のICUが「幼い」息子たちの遊技場と化している。夢の領域での交歓はどこでも可能だ。三人揃ったときそこが夢の家庭になる。
 (だがそれでも兄を哀れに思う弟の精神は女性のそれだと思う。男はたぶんそうは思うまい。)

 夢はどこへ行くのか?
 
 人はいつも夢を見ている。息子たちは父の夢を。父は息子たちの相変わらずの喧騒を叱りつける。
 人は夢を追っている。医者は未亡人の心をとらえる夢を。

 ひとり暮らしの未亡人(八千草薫)が伊野の思いを寄せる人である。映画の末尾でその未亡人のもとへ姿を見せる彼は、未亡人の見た幻であるかのように後ろ姿で登場していた。

 娘(井川遥)と母(八千草)の思いの交錯も美しい。
 隣同士の部屋でどちらもカメラに背を向けて坐ってポツリポツリ語り合う場面はリアルだ。
 八千草の「行こうかな」という台詞もいい。

 最後の幻影を見た時の未亡人(八千草薫)の和やかな表情も印象的だ。
 西川は八千草のこの表情で締(し)めることに最初から決めていたのだと思う。

 市民社会のルールと夢は位相が異なる。たとい市民社会の制度的現実から滑り落ちたとしても、夢の位相に忠実に生きようとするのが人間の性(さが)だ。そのときルールは無視しうる小ささ軽さになる。それが人間というものだ。西川はそこを見つめている。

 制度的世界と夢的位相のズレ、市民社会のルールと人生の哀感との段差を西川は丁寧に描いていて、私たちの生きる手応えの在処を見せてくれる。その点で秀逸だ。
 だが、映画には映画のルールがある。このキャストになったとき、どこが強調されるかは決まってしまっていたのだ。それは鶴瓶や瑛太ではなく、八千草や余(看護婦)や井川である他なかった。(特に八千草!)まさにそういう映画になった。キャストは重要である。そして西川にはその点でのセンスにやや難があるのかもしれない。(もうひとつ。「男」の捉え方にも… 笑)

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