イヌタイジイヌ
《リード》
前稿「イルカタイジイルカ」の姉妹編。本当はこっちが先がよかった(笑)。削るのに手間取って10月に載せるつもりが乗り遅れてしまった! 加藤周一や長塚圭史、それに中井久夫にも触れるつもりが忘れてしまった!(字数的に無理だが…笑)
《本文》
子どもの頃、同じアパートの友達と拾って来た犬(雑種)を飼ったことがある。「倉庫」と呼んでいたアパート付属の物置の隅でである。もちろん親たちには内緒。交代でエサを持って行って大切に育てていた。飼っていくうちに、私たちの間では「ポチの好きなようにさせてやろう」という人権ならぬ犬権思想が頭をもたげて、ポチの気まぐれの後ろをゾロゾロと歩いたりした。
犬を擬人化して捉えるというのは、それなりの教育効果もあり、子どもにとっては有意義なことかもしれない。だが、私たちに芽生えた「犬権思想」はじきに飽きられてしまい、ポチの幸せが何かはっきりしないまま、元のように縄ひもで引き回す形に戻って行った。
今や犬を飼っている家は四軒に一軒もあるのだとか。広い駐車場を備えた大型店も出現した。高価な商品として、「拾う」「貰う」のではなく「選んで買う」ものになった。純血種犬など我が家のような貧乏所帯では飼えないが、ご近所ではその種の犬を何匹も飼っている。今や車並のステータス・シンボルになったようだ。
だが犬に服を着せたり、床屋に行かせたりというのはやり過ぎで、そこに投影された過剰な欲望を笑えなくもないが、人間並みにカネと手間を掛けるそこにはシミュラークルとしての空虚が漂っている点でどこかうすら寒い。
ただし犬にカネを掛ければ空虚で、人間にならば空虚でないかといえばそうでもあるまい。人間の子どもにカネを掛ける方がもちろん「実」が入っているという意味で少なくとも「シミュラークル」は当たるまい。
しかし明らかに失敗なカネの掛け方もあり、そこにはやはり空虚が漂う。女優の三田佳子は「高校生の次男の小遣いは月50万円」と口走って非難されたが、その次男は親のせいばかりとはいえまいが、芸能界入りの後、転落の途上にある。
私の子どものころも、やはり「Spoild Child」は存在していて、付き合ってきた。軽蔑しつつも適当に利用していた。(少し反省…)
Spoちゃんはなんと言ってもお小遣いを持っている。いつでも持っている。もし持っていなくてもすぐもらえる。私たち悪童どもは、よくSpoちゃんの家に呼び出しに行った。それは母親から「遊んでやってね」と頼まれたこともあるが、彼のカネが魅力的だったからでもあった。Spoちゃんにはかならず母親がまとわり付いていて、いつでも顔を出し口を出す。私たち子どもから見ても「何てアホなんや」と哀れになるくらい母親は甘く、顔口の上にカネも出す。行こうとするSpoちゃんにいくらかのお金を握らせるのが常だった。それは「遊んであげる」私たちの共有財産(!)になる。一緒に使って無くなれば、少し遊んでから泣かして帰してしまうというのが通例だった。その度に私たちは幾ばくかの菓子やメンコやビー玉を手に入れた。
当時はそんな風には思わなかったが、ちょっと遊んでは捨てられるSpoちゃん(そういう役回りの女性も世にはいるようだが…)は少しかわいそうな存在だった。それはしかし彼自身の行動パターンに内在する自己中心的不安のなせる業で、私たちが悪いというより自身の招き寄せる渦に自身で吸い込まれていくようなものだった。
母の愛という「実」が「虚」を生み出して行くという因果は、飼い犬を過剰に擬人化することによる因果に似ている。つまり服を着せられた犬はSpoild Childに似ているのだ。
人間より高いカットを施した犬を、ファッション・アイテムとしてクールに使い捨てているのであれば、むしろSpoちゃんにたかっていた私たちと似て来るのだが、どうやらそういう距離感にはならず、母子密着の病いがにじみ出ているのが着衣犬の特徴だろう。だが、御当人(飼い主)はそんなことに頓着せずにいる。愛玩用をめざした特殊な交配で生まれた犬が好まれる点でも、自然破壊はここに極まれりの観があるから、世の反捕鯨運動家たちは、自然保護主義者なのだろうから、太地町(伝統捕鯨の町)に集まるよりも都会(東京)に来て、犬屋の前で犬たちの非犬的扱いに抗議した方がいいのではないかと思う。
「羊頭狗肉」というくらいだから中国では犬の肉は立派な食い物で、日本でも犬の仲間のタヌキは「狸汁」の語があるからつい最近まで食っていたに違いない。その点でも反捕鯨運動家の活躍の余地があろう。
反捕鯨家の出身国アメリカでは人道的な死刑の方法が議論になった末、毒液を静注する方法が広がったが、それが巧く行かず死刑をもう一度するかどうかでさらに議論になったりしているが、そもそも「人道的な死刑」という矛盾を平然と語るところが滑稽である。この想で行けば確かに動物を殺すにも人道的(?)な方法とそうでない方法というのが区分けされることになろう。だが、その主観的極まりない論争にどういう土俵が想定できるのか怪しい限りだ。
宮沢賢治の「どんぐりと山猫」のドングリの裁判を思い出させる。
ドングリどもの争いに困り果てた山猫は一郎の助け舟をそのまま採用して「このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」と宣言する。愚かな争いにはこれぐらいの裁定が似つかわしい。ドングリどもは静かになる。
反捕鯨の思想は宮沢賢治に屈服する。いい図柄だ。
もっとも宮沢賢治に脱帽せざるをえない点では、犬を猫っ可愛がりの飼い主諸君も同じだが。
(犬、往ぬ、射ぬ、対峙、退治、胎児、太地……この文章のタイトルの漢字はどれ?)
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